その日はとてもいい天気だった。
とは言っても海堂の日課は特に天気に左右されない。
早朝に起きてそのままランニング。雨が降っていればレインコートを上に羽織るだけのことだ。
しばらく無心に走っていると、海堂足音にもう一つ別の足音が重なった。
「海堂先輩、おはようございます!」
そう言いながら海堂の横に並んだのは巴だ。
珍しい。
これまでも何度か海堂の朝のランニングに巴が合流してくることはあった。
しかしいつもと違うのはその時間だ。
「ああ、おはよう。……今朝は早いな」
海堂と同じ練習メニューを一年女子の巴がこなせるわけもない。
知っているわけではないが彼女は彼女なりのメニューを組み立てているのだと思う。
彼女に出会うのは毎日ではなく、それももっと遅い時間と決まっている。
海堂の指摘に、走りながら巴はへらりと笑った。
「怠け者の節句働きっていうんですかね。今日は早く目が覚めちゃって」
「今日は平日だぞ」
「そうなんですけど、今日は特別なんです」
今日は何かあっただろうか。
記憶を探ってみたが何も思い当たることはない。
と、海堂が尋ねる前に巴の方から嬉しげにその解答が返ってきた。
「今日、私の誕生日なんです! まあ、だからって何があるわけでもないんですけどね」
心当たりがない筈だ。
巴の誕生日なんて今初めて知ったのだから。
少しの沈黙。
タイミングを失してしまった事を自覚しつつ、再び口を開く。
「…………おめでとう」
「ありがとうございます!」
「…………」
巴が笑顔で礼を言うと、海堂はそっぽを向いて先に走って行ってしまった。
「巴さん、誕生日おめでとうございます」
「菜々子さんありがとうございます!」
ランニングを終えて帰宅すると、朝食の支度を整えていた菜々子が巴に祝いの言葉を告げる。
それを聞いて南次郎が新聞から顔をあげた。
「そういや今日が誕生日だっけか。凜子がバースデーケーキ作るとかなんとか言ってたぞ」
「本当ですか!? うわぁ楽しみ!」
「それじゃ私もお手伝いして今夜はご馳走作らなきゃですね」
「やったー!」
そんな会話で盛り上がる他の人間を尻目につまらなそうな顔でリョーマは牛乳を飲んでいる。
「どうでもいいけど早くメシ食わないとまた遅刻するんじゃないの」
「あ、そうだね…って私遅刻した事ないし!」
きっちりと念押しをしてから制服に着替えるべく自室に去っていく。
そんなやりとりを眺めつつ「まだまだだねえ」と愉しげに呟いた南次郎の足元でカルピンが相槌を打つかのように一声鳴いた。
「モエりん、誕生日おめでとう〜!」
昼休み、昼食を食べ終えたタイミングで朋香、桜乃、那美の三人が巴にプレゼントの包みを差し出した。
「うわぁ、ありがとう! 嬉しい!」
喜びを表現すべく隣に座っていた朋香に抱きつき、すぐに邪険に振り払われる。
「ちょっと、圧死したらどうすんのよ。放しなさいってば」
「うう、朋ちゃん冷たい……けど好きだよ」
大げさに嘆くそぶりをみせる巴だったが朋香は慣れた調子で軽くあしらう。
「あーハイハイ。いいから開けなさいよ」
「三人で選んだんだよ。気に入ってくれるといいんだけど」
「うん! あ、那美ちゃんも桜乃ちゃんももちろん大好きだよ!」
「いや、別にそのフォローはいいから」
リョーマに借りていた辞書を返しに教室に現れた堀尾は丁度プレゼントの包みを開きながら盛り上がる女子たちを遠巻きに見つつ「なんだ? 越前、あいつら妙に盛り上がってっけどなんかあったのかよ?」と尋ねたがリョーマからは「さあ」というそっけない返事しか返ってこなかった。
「あれ、珍しいな」
「あ、これですか?」
ユニフォームに着替え、コートに向かって歩いていた巴が大石の声に振り返る。
一瞬きょとんとした表情を見せたがすぐに思い当たり、髪留めに手をやった。
「お昼に那美ちゃん達にもらったんです。その時に折角だからってセットもしてもらっちゃって」
「うん、良く似合ってるよ。……そっか。今日は巴の誕生日だものな。誕生日おめでとう」
何気ないように大石が口にした言葉に巴が目を見開いた。
「大石先輩、よく知ってますね」
「まあな。とはいっても残念ながら俺は何か用意しているわけじゃないけど」
「そんな! 祝ってくれるだけで充分ですよ!」
大石の言葉に巴は慌てて手を横に振る。
謙遜でも遠慮でもなく本音だ。まさか先輩に祝ってもらえるとは思っていなかった。
と、その時背後から別の声がかけられる。
「俺も知っていたぞ。更に誕生日祝いも準備してある」
「あ、乾先輩! って、そうなんですか!?」
「やあ、さすがは乾だな」
祝ってもらえるだけで充分だが何かもらえるならそれはそれで嬉しい。
目を輝かせた巴だったが乾がバッグから取り出したそれを見て顔色が変わる。
ドリンクボトル。
乾が差し出すそれといったらもう中身は決まっている。
「さあ、お前の為に特性に調合したアニバーサリードリンクだ。一気に行くといい」
逆光。
「はは……さすがは乾だな」
乾いた笑顔で大石が先ほどと同じセリフを繰り返す。
しかしそのニュアンスはかなり違っているが。
「いえ、もうそのお気持ちだけで充分です! はい!」
「なんだ、遠慮はいらないぞ。ぐっと行け」
「いやいやいや! 本当に、もう!」
大慌てでなんとか『贈り物』を拒否しようとしているところに、パシャリ、とシャッター音が聞こえた。
そちらを向くと不二がにこにこと笑いながらカメラを構えている。
「あれ、不二」
「ちょ、何撮ってるんですか不二先輩!」
「何って、モエりんの十三歳一日目の記念に」
「どうしてこんな変な顔してる時にいきなり撮るんですかー!」
恐怖交じりの乾いた笑顔だったに決まっている。
そんな顔は記録に残してほしくない。
「うう……不二先輩のカメラ、デジカメじゃないから消せないし……」
恨めし気に不二を睨む巴に、不二はさらりと笑顔で答えた。
「大丈夫だよ、どんな表情でもキミは魅力的だから」
「な……!」
この台詞に顔を赤くしたのは大石の方だった。
乾が窺うと巴は平然としたものである。
「不二先輩はまたそういう事を……そんな事いってもごまかされませんよ!」
「ひどいなぁ。ごまかしたつもりなんてないのに」
「はいはい。あ、一年みんな集合し始めてるんでもう行きますね」
そう言うとコートの一角に向かって走り去っていく。
「……巴、軽く流したな」
「傷つくなぁ」
「ふむ、いいデータが取れた。……しかし、折角のドリンクを忘れていってしまったようだが」
それは忘れたんじゃなくてわざと置いて行ったに違いない。
チラリ、とドリンクを持ったまま乾が大石の方を見る。
「大石」
「さ、さあそろそろ俺たちもコートに入らないとな! おーい、英二ー!」
「…………」
「……良かったら、それ、ボクがもらおうか?」
一年部員だけで素振りを行っていると、カツオが巴の方を向いて不意に言った。
「赤月さん、今日誕生日なんだって?」
「え、うん。よく知ってるね、水野くん」
手は休めず、顔だけをそちらに向ける。
同じように手は動かしながらカツオが巴に笑いかける。
「今さっき小鷹さんに訊いたんだけどね。おめでとう」
「へへへ、ありがとう」
カツオの奥側には確かに那美がいる。彼女もこちらを向いて笑顔を見せていた。
と、反対側から今度はカチローと堀尾が声をあげる。
「へえ、そうなんだ。おめでとう!」
「てことは昼休みに騒いでたのはそれかよ。越前言えよなー!」
「……どうでもいいし」
不満気に言う堀尾にリョーマはつまらなそうにつぶやくとそっぽを向いて素振りを続行する。
「じゃあさ、誕生日祝いって言うにはアレだけど今日部活の後片づけ、代わってあげるよ」
「え、そんな悪いよ」
「いいからいいから。年に一度なんだし甘えときなよ」
「そうそう、せっかくなんだしさ!」
カチローとカツオ、さらには向こうから那美にまでそう言われて巴は戸惑いつつも頷いた。
「そう? それじゃあ……」
「あ」
「え?」
カツオと那美が急に動きを止めた。
怪訝に思って前を向いた巴の動きもまた、止まる。
「私語厳禁とは言わんが、話に夢中になるあまりに手が疎かにならないように」
「は、はい! 手塚部長!」
いつの間にかすぐ目の前に現れていた手塚に思わず直立不動になる。
ちらりと横目で見ると他のみんなは熱心に素振りを続けている。しまった、そっちが正解だ。
「レギュラー三人はコートに入れ。残りの一年は球拾いにつくように」
「はい!」
きれいなユニゾンで返事をすると各自移動する。
巴も同じようにコートに向かおうとすると、手塚に呼び止められた。
「赤月」
「はい! すいませんでした!」
つい脊髄反射で謝罪の言葉が口をつく。
案の定手塚の眉がひそめられる。
「……俺はまだ、何も言ってはいないが」
「あ、はい、すいません。さっきの私語に関してかと思いましてつい」
「先ほどの件ではない」
他に何かやらかしていただろうか。
多分、身に覚えはない。
「じゃあ、どうかしました?」
「今日はお前の誕生日なのか」
「……? はい」
「そうか」
それが何か関係あるのだろうか。
ますますわからない。
しばらく次の言葉を待つ。
「いや、いい。呼び止めてすまなかった」
「いえ」
首をかしげながらコートに向かう。
コートでは那美が心配そうに巴を待っていた。
「部長、なんて?」
「いや、それがさっぱり。あ、ひょっとして『誕生日おめでとう』って言ってくれるつもりだったんだったりして!」
「いやぁ、それはないんじゃないかな……」
いや、でもひょっとしたら、と那美はちらりと手塚を窺い見る。
その表情はいつもと変わりなく見える。
真相は手塚だけが知る。
つまり、彼以外の誰にも実際のところはわからないのだ。
「モーエりんっ!」
ぺしっ。
部活を終え、制服に着替えて帰宅しようとしたところでいきなり後頭部をはたかれる。
「何するんですか!」
「まあまあ怒んな怒んな。せっかく先輩が誕生日を祝ってやろうってんだから」
「へ?」
桃城がなだめるように笑いながら言う。
横では巴の頭をはたいた張本人の菊丸がにやにやと笑いながらこちらを見ている。
「モエりん、今日誕生日なんだろ? せっかくだから菊丸様がファミレスでパフェでもおごっちゃるよん」
「え、本当ですか!?」
「マジマジ。っても桃と折半だけどね」
と、そこに通りがかった荒井の腕を即座に掴む。
「あと荒井も」
「は? なんすか菊丸先輩!?」
「わーい、ありがとうございます、菊丸先輩、桃ちゃん先輩、あと荒井先輩!」
「だからなんの話だってんだよ!」
「まーまー、諦めろって荒井。ここに通りがかったのが運のツキだって」
話がさっぱりつかめない荒井の肩を苦笑いしながら桃が叩く。
それを見てリョーマが大仰にため息をつくと帽子をかぶりなおす。
「……珍しく荒井先輩に同情するっす」
「おー、越前も来る? お前の分はおごんないけど」
「遠慮するッス」
「いいじゃん、リョーマ君も行こうよ!」
「ていうかお前、家帰ったらおふくろがケーキ作ってるって事覚えてる?」
「大丈夫だよ〜、別腹別腹」
「それ、使い方間違ってると思うけど」
「だーかーら、なんだっつーの!」
「ごちそう様でした!」
ファミレスを出て満足そうな表情で巴が頭を下げる。
「いやいや、かわいい後輩の為だからね〜」
「そうそう」
「桃先輩は食いすぎだと思うんすけど」
横では財布を開いたまま、まだブツブツと荒井が文句を言っている。
「くそっ、今月は出費がデケェってのに……」
「まあまあ、三分の一なんですからそんなに大した出費じゃないじゃないですか」
なだめるように言う巴に荒井が食って掛かった。
さすがに企画者の菊丸は先輩なので面と向かっては逆らえない。
「お前が言うな赤月! 自分の飲食代に上乗せなんだぞ!」
「荒井先輩が自由意思で飲み食いした分まではちょっと責任とれませんよ」
「この分はぜってぇ俺の誕生日に取り返すからな! 覚えてろよ!」
「だって私荒井先輩の誕生日知りませんから」
「じゃあ今覚えとけ! 俺の誕生日は」
「それじゃ先輩たち、また明日!」
「聞けーーーーーっ!」
大きく手を振ると、リョーマと共に家路へと向かう。
もう日はとっくに暮れている。
「あー、今日はみんなにお祝いしてもらっちゃった!」
「そんなに嬉しいもん? 自分の生まれた日ってだけなのに」
つまらなそうに言うリョーマに巴は当然と言わんばかりの顔を向ける。
「うん、嬉しいよ! 私が生まれた日ってことを皆が意識してくれてるって事が」
「ふーん……」
と、携帯が鳴った。
聞き覚えのあるメロディは巴のものだ。
画面を開いた巴の顔が傍目で明らかにわかるほどに輝いた。
同時に、リョーマの眉が一瞬不快そうに寄った。
隣にリョーマいることなど忘れてしまったかのように携帯を読み返し、閉じる。
「さ、早く帰らないと夕飯の時間に間に合わなくなっちゃうね。帰ろ!」
「……ねえ、今の、誰からのメール?」
不躾ともいえるリョーマの質問に、一瞬巴はきょとんとした表情をうかべた後、満面の笑みで答えた。
「お父さん!」
拍子抜けの返答。
安堵したような気がそがれたような、微妙な気持ちをもてあましつつ、巴と共に歩く。
家はもう、すぐそこだ。
「赤月」
「ん?」
こちらを向いた巴の方は見ずに、早口で言う。
「誕生日おめでとう」
せっかくだから、と言い訳にもならない言い訳を口にするリョーマに巴は少し驚いたような顔をしながらも笑って応える。
「……うん。ありがとう!」
――― Happy anniversary ! ―――
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