白いテント布の下に大量に並べられている、飴色のドリンクが日光にきらきらと反射している。 例年は当然のように立ち寄るそこをスルーしたら、袖口を引いて止められた。 「リョーガ兄、いいの?」 肯定の意味で手をひらひらと降ってみせれば、巴は目を丸くして、弾けるような驚きの声を上げる。 「えー、毎年買ってたじゃん」 「今年はいいんだよ」 「ウィンブルドンでピムス飲まないなんて、スイカを食べない日本の夏休みみたいなものって言ってたのに」 「たまにはそういう夏休みがあってもいいだろ」 未だに自分の袖を掴んだまま、上目遣いでぽかんとしている巴に、相も変わらずときめきを覚えてしまう。 そんな自分を、懲りないものだと苦笑い。 「あ、もしかしてこの間の私特製ピムスの味が忘れられないから?」 「もしかしてあのキュウリ入り風邪薬のことを言ってんのか?」 「薬草リキュールだっていうから。そっくりだったでしょ?」 「ふざけんなよ」 「わああっ」 巴の髪をぐしゃぐしゃと撫でたあと、振り払わずにそっとその手を解いて、気軽なフリをして手を繋ぐ。一瞬びくつかれたけれど、すぐに手を握り替えしてくるのに満足して、足を踏み出した。 「お前はまた買うんだろ、ストロベリークリーム」 「もちろん!」 「よく飽きねえよな〜、あんなガキっぽいもん」 「さっ、最初に食べさせてくれたの、リョーガ兄のくせに!」 「あー、そうだったな。よく覚えてんなァ、そんなこと」 「忘れるわけないでしょ〜」 そんな些細な言葉にさえ、喜びを感じてしまう。 「私のファン歴も、もうすぐ10年だもん」 「もうそんな経つのか」 何気ないフリをしているけれど、本当はきちんと気づいていた。 リョーガが初めて巴をウィンブルドンに連れてきたのは、彼女が中学二年生になった年だった。 強い日差しのテニスコート、集まる世界の猛者たちに、当時は現役のテニスプレーヤーだった彼女が、どんなに目を輝かせていたか、今でもはっきり覚えている。 はしゃぎっぷりがすさまじくて、手を離したら迷子になってしまうと思ったから、初めてきちんと、彼女と手を繋いだのもあの日のことだ。 何を初々しいことをと、後から弟に散々バカにされたのは悔しい思い出でもある。 けれどそれだって、風物詩のストロベリークリームを食べさせたときの、あのあどけない笑顔ですべて帳消しに出来る。 生意気な弟の蔑んだ声なんて、弾けた笑い声で一掃出来てしまうのだ。 「リョーマくんも来られれば良かったのにね」 「自分の試合が終わった瞬間発熱とか、ガキかっつーの」 「きっと疲れてたんだよ」 苦笑いを浮かべながら席につく巴を、もう10年間、毎年この時期、必ずこの場所でみていた。 「リョーガ兄は治ってよかったねえ」 「まあな」 初夏のウィンブルドン。 日本の越前家に帰ることがあったと思えば、アメリカに単身で住み込んで、そうかと思えばイギリスの豪邸にいたりする・・・そんなリョーガにとって、唯一日付を守っている行事だった。 毎年飲むからと言って、名物のピムスを真似たドリンクを作って来た巴は、記憶に新しい。つい数日前のことだ。 風邪を引いて寝込んでいるときだったからありがたかったし、何より嬉しかった。強烈な味ではあったけれど、上書きしたくなくて、ミネラルウォーターのペットボトルを購入した。 見破られていたことは、内緒なのだ。 「巴」 「うん?」 例年と変わらず、山盛りのイチゴと生クリームを頬張っている彼女は、そんな子どもっぽいところは変わらないままだけれど、それでも大人になった。 初めて来たときは片言だった英語も、今では流暢なものだ。 自分の目標に向かって、日々勉学に励んで、空いた時間でテニスをしている。 肌の色はアスリートのそれに近いのに、変になめらかだ。 サンバイザーをつけていても、長いまつげの影が分かる。 先ほど触れた長い髪だって、びっくりするくらい心地よくて、妙にいいにおいがするのだ。 屈託のない笑顔も、直球な態度も、嘘偽りなく人にぶつかっていく姿勢も、あのころのままだけれど、背格好も服の趣味も、ふとした所作のすべてが、もう子どもではないのだ。 「なんかお前・・・縮んだか?」 「はあっ?」 面白くないと眉をひそめるその表情は、ふとあのころを連想させるけれど。 「いややなんか、こう・・・」 「リョーガ兄が大きくなっただけじゃない?」 呆れたため息と共に、微かな笑みを浮かべている。 「また背伸びたよ」 「いや、さすがにもう」 「じゃあ肩幅かなあ。筋肉がついたのかも。大人っぽくなったね」 「大人だからな」 「もー、そうじゃなくて」 そして自分も、もう子どもではない。 「格好良くなったとか、そういう意味だよ」 「元々だろー?」 「そうだね、世界一だ」 「はっ?」 今度はリョーガの方が、思わず上擦った声で聞き返してしまった。 反射的にそちらを向けば、ストロベリークリームのスプーンをかじりながら、ばつの悪そうな表情で、ちらちらとこちらを見ている巴がいた。 呆けて思わず目が合えば、ばっと勢いよく逸らされて、すぐに後ろ姿しか見えなくなる。 「・・・・・・おい」 長い髪の間から覗く耳が真っ赤なのが、強い日差しのせいではないことくらい、すぐに分かってしまった。 「おい巴」 「・・・なに」 「こっち向けよ」 「今イチゴ食べてるから」 「さっきも食べてただろ」 「生クリームも食べてるから」 「食べたままでいいから」 「たっ、食べ続けるから!」 「じゃあそのままでいいけど、今なんて言ったんだよ」 「わっ、わすれた!」 感情に素直な生き物だった。 悲しいことがあったら、大口を開けてびーびー泣くし、嬉しいことがあったら、これでもかというくらい、幸せそうに笑う。 「照れてんのかよ?」 「知らないっ」 弟のリョーマがこの大会に出ることが決まったとき、飛び跳ねるようにして喜んだらしい。電話口の声色だけだって、よく分かった。 その巴が、いつも疎かったのが異性問題だった。 感覚がズレているわけではない。人並みに格好良い人は分かるし、それなりの扱いをされれば照れることもある。 テレビの芸能人のプロポーズ特集を、羨ましがって惚けていたことだってあった。 「なあ」 「・・・・・・っわ」 リョーガ自身、自分の口調が焦ったものであるのは感じていた。 バカらしい。 こんな些細なことだって、からかっているようにしながら、焦ってしまう。 情けない話だ。 顔が熱くて、手足が変に熱を持っている。口の中が妙に乾く。思わず片手を伸ばして、肩を掴んでしまっていた。鍛えていても華奢なのは女だ、意識した瞬間、意味深に喉が鳴ってしまって、そんな自分に辟易した。 「巴」 片手に持っていたミネラルウォーターのボトルを手放す。ついた水滴を自分の服で素早く拭って、巴のもう片方の肩に回した。 ゆっくりと促せば、特に強い抵抗もなく、観念したようにこちらを向かせることに成功した。 「顔上げろよ」 「・・・やだ」 「なんで」 「格好悪いから」 「お互い様だろ・・・」 お互い様だ。見るまでもない。 俯いたままでも分かるくらい、巴の顔は真っ赤になっていて、自分だって同じことくらい、温度で分かる。ここで余裕をかませない自分の、どこが大人だろうか。数分前の自分を真っ向から否定してやりたくなったが、今はもう、目の前の女の子のことしか見えていない。 「お前、なんなんだよ・・・」 彼女は、風邪を引いたと聞きつけた途端、イギリス入りを早めて、リョーガのホテルにやってきた。 越前家にいるときも、ホテルでも、当然のように一緒の部屋で眠ってしまう。 さすがに風呂には一緒に入らないし、洗濯をされるのは嫌がるけれど、自分がするのは苦にしていない。 手を繋いでも、平気な顔をしている。 格好良いという誉め言葉は、何度だって聞いてきた。 その度に茶化して、喜んで、舞い上がって、それからひっそり、一生変わらないのであろうこの距離に、落ち込んだ。 何度手を止めて、我慢したことか。 泣かせてもいいから手中におめさたいと、思ったことがないわけではない。 それでも、平気な顔をして自分に許して、近寄ってくる姿に、いつだって突破されてしまっていた。 いつか恋人を紹介してきたら、兄貴面して一発くらい殴ったあと、幸せにしてやれと吐き捨てて、南次郎やリョーマ相手に、愚痴でもこぼそうと思っていた。 「おいってば」 きっとそうなるのだ。 異性として意識していない彼女との関係は、きっとそんな風に、続いていくと。 「なんでお前、今更・・・・・・」 「だっ、だってリョーガ兄が・・・」 「俺が、何だよ」 「お、一昨日!ホテルに!私が泊まったとき!」 「うおっ」 開き直ったかのように、勢いよく顔が上げられた。 目がやたら潤いを持っていて、スプーンと容器を握った手はきゅっと握られていて、声は張り上げるようだけれど微かに震えていて、案の定顔は、真っ赤だった。 心臓は高鳴るし、喉は鳴るし、口元はにやけそうになる。 正直に言おう、かわいい。 「なっ、なんだよ!」 「ちゅ、ちゅーしたじゃん!私のほっぺに!」 「おっまえ、起きて」 紅潮したまま噛みついてくる。 こちらも開き直って応戦してしまうのは、長年の癖なのかもしれない。欲望と現状が融合している。 「それで照れてんのかよ」 「だ、だって・・・!」 「大体、むっ、昔からするだろ、キスくらい。たまに!」 「それとは違うじゃん!いつもは絶対私が起きてるときに、ふざけてやるだけだったもん!違うやつだったもん!」 昔からそうだ。 巴は、異性問題に疎い。 だけど、バカじゃないから、鋭い。 向けられている好意に気づいたときの、適切な対処法を、計算出来ないだけ。 だからもう、リョーガには逃げ方が分からない。 真っ向からぶつかってくる鈍感を、どうしたらいいというのか。 きちんと真正面からこの気持ちに向かったことなど、あったのか? 「そ、そんなん、みたらさ」 気づいたらそこにあったから、仕方ないと思って、飼い慣らしていた感情だった。 いつものらりくらりとかわしてきた。 結局10年以上抱き続けたこの気持ちも、いつかはきっと、墓場に入るだろうとかわし続けて、弟に呆れられていた。 そんなんじゃダメだと言われては、ダメで仕方ないと笑っておいた。 真剣になって怖くなるたび、海外に逃げて、また日本に戻って、顔を見て声を聞いて、一年に一回だけ、テニスにすがってここにたどり着いた。 「私だってさ、思ってることも、したいことも、いっぱいあるのに、ずるいよ・・・・・・」 「ず、ずるいって、おい」 「いっ、いっつも、へらへらして、きれいな大人の女の人といちゃいちゃして、し、知ってるんだから私」 「お、おい巴」 「な、ななんか香水のにおいするときあるし、ほ、ホテルだって、女の人のピアス、落ちてたことあったし」 「いや、だからそれは大人の付き合いっつーか」 「私だってもう大人だもん!」 「おいってば」 「わっ私の方がずっとものすごく、ずーっと、リョーガ兄のこと好きなのに」 こいつは今、何を言っているんだ? 「バーカ!早くハゲちゃえ!」 「は、はあっ?」 「私イチゴもう一個買ってくる!」 耐えられないような沈黙を作ることもなく、こちらに踵を返すこともなく、脱兎のごとく席を後にした。 振り払われた肩を掴むことも、腕を引いて止めることも出来ない早さだった。 「な、んだよあいつ・・・」 自分の席に座り直して、へなへなと頭を垂れる。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだと思った。 ストロベリークリームの屋台はいくつもあるが、どれも大行列をなしているはずだ。そのことを知っているから、もう10年間ずっと、試合前に調達しているのだ。 買い足しに行って、きちんと戻ってくるのには途方もない時間と手間がかかる。 巴はそのことを分かって出て行ったのだろう。去り際、手元のカップには、まだイチゴも生クリームも残っていた。 しばらく帰って来ない彼女に安心する。 この顔の熱は引かないままでもいいが、さて、どうやってきちんと伝えればいいのか、格好の付け方は分からない。 10年間、もっと、それ以上、温めすぎた感情のコントロールは、至極難解だ。 飲み干したペットボトルをぐしゃぐしゃと潰しながら、葛藤。 Thank you for loving! 夏村 夏村様
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