「全然…こんなんじゃ全然だめだよ……!」
巴は靴紐を締めなおす振りをして、にじむ涙を拭い取った。


月夜の出来事


"補欠のようなもの"としてメンバーに入ったジュニア選抜の合宿。
選ばれたからには結果を残さなくてはいけないと思っていたし、
自分のためにもパートナーのためにも頂点を目指すのみだと思っていた。
(でも、全然足りてないんだ……)

力も、技術も、精神力も。
試合を重ねれば重ねるほど浮かび上がってくる自分の弱さに焦りと苛立ちは積もるばかり。
ルームメイトとの話は楽しいしテニスの参考になるものばかりだけれど、
この合宿のうちに何かを見つけなければならないような気がして、巴は夜の自由時間を走りこみに充てる事にした。

走るだけで何か変わるとは思えないけれど、そうでもしないと自分がどんどん弱くなってしまうような気がして、
巴は月明かりを頼りに合宿所の周りを毎晩消灯時間ギリギリまで走っていた。
今何週目なのか数えるのもやめた時、テニスコートの入り口に人影を見つけ足を止めると
相手は巴に気づいて手を振り、こちらに近づいてきた。
「や、こんばんは」
オレンジ色の髪に人懐っこそうな笑顔。巴は驚いて口をぱくぱくさせた。
「あれ……千石、さん?」
千石はそんな巴の様子に気づいていないのか、ニコニコと笑顔を浮かべて巴の元へ来た。
「はいはーい、千石さんですよ。赤月さん……いや、巴ちゃんは自主トレしてるの?」
「……はい。千石さんは?」
「俺はねぇ……夜のお散歩、かな?ほら今日って月がとっても綺麗だし
占いでも素敵な出会いがあるって書いてあったからさ、
外に出たら本当に君がいたんだ。俺ってラッキーじゃない?」
矢継ぎ早に声を掛けられて巴は「はぁ……」と間抜けな声を出すのが精一杯だった。

「こんな月の夜に出逢えたんだからさ、残りの時間は俺とデートしようよ!」

ポンポンと肩を叩かれてベンチに促されるままに腰掛けると、巴は少し困ったように千石を見上げる。
「あの、でも私自主トレしてて……」
「知ってるよ。毎晩泣きそうな顔して走ってるんだって?君の友達の――
小鷹……えーと、そう小鷹那美ちゃんが心配そうに君の事話してたよ」
「……那美ちゃんが?」
那美とは夜に一度会って海堂先輩に差し入れするという話をした事はあるけれど、
自分が心配されるような事はしていないはずだと思い、 巴は「どうしてだろう?」と首をかしげた。

「んー……どうして友達が心配してるか、俺が教えてあげようか?」
ベンチに浅く腰掛けて足をぶらぶらさせていた千石は少し意地悪く微笑むと立ち上がり、
巴の前に立ちはだかった。
「それはね、君がいくら走りこんだ所で全然強くなれない事を友達は知っているから」
「……どういうことですか?」
【強くなれない】と言われ、巴は怒りを露にして立ち上がった。

「いやいや怒らないでよ~。」
千石はなだめるように巴に微笑みかけるが、巴は気持ちを抑えられずにうつむいた。
「私が強くなれないとか那美ちゃんが心配してるとか、
あまり話したこと無い千石さんにそんなこと言われたくないです……!」
「んー……じゃあさ、あんまり話したことの無い俺にも気づかれちゃうっていう考え方はどう?
がむしゃらに走っても精神力がついていかなくて、話したことの無い俺に煽られて
本気で怒っちゃうくらい自分に余裕がないっていう状況には気づいてる?」
「……」
「このまま君がテニスを嫌いになる前に、もっとテニスを楽しんで、
楽しみながら強くなって欲しいって思っただけなんだ。うまく言えないけどさ、
ほら『努力・体力・精神力』?みたいなやつ。わかるかなぁ?」

自分の手が震えているのが悔しい。
言われた事がその通りだから悔しい。
那美ちゃんを心配させていた事に気づかなかったのが悔しい。
気持ちばかり空回りしていたのが悔しい。
強くなりたいのに、弱い自分が悔しい。

巴は自分の感情がごちゃごちゃになり、うつむいた顔から次々と涙がこぼれ落ちた。
「えっ、えええ!泣かないで!大丈夫だから!ね!泣かせるつもりとかじゃなかったんだけど……ごめんね」
慌ててなだめてくれる千石に首を振って涙を拭ったが、なかなか涙は思うように止まらず
次から次へとあふれてくる。
千石は巴をベンチに座らせるとポケットからハンドタオルを取り出して渡し、自分もその横にもう一度腰掛けた。
「……負けてから気づくことって沢山あるけどさ、つぎこそは!って気持ちが大きいとやる気が出るでしょ?
でも、強くならなきゃいけない!って強迫観念みたいなのでやると、
どんどん気持ちが弱くなっちゃうんだよね。俺だけかもしれないけど」
「私も……そうかもしれません」
「うん。だからさ、ちょっとリラックスして、それから頑張ったらどうかな?」
「……ありがとうございます」

ぐじぐじと涙を拭いて呼吸を整えていると、千石はそれを待ってくれているのか
足をぶらぶらと遊ばせながら隣にいてくれる。
何も話さないでいたけれど、巴にはそれが心地よく感じた。

それから少したった頃、千石はハッと顔を上げた。
「あ……よく考えたら、俺もぜーんぜん強くなかった!」
「……そんな事ないですよ」
「あっ、笑った?良かったー。キミのこと泣かせたなんて手塚君に怒られちゃうからね!」
ベンチの背になっているコートの網に背中をつけて大げさに胸をなでおろす千石に、
巴は両頬をパンと叩いて微笑んだ
「すみませんでした。もう大丈夫です!」

「うん、それなら良かった。じゃ、これからデートしよう!」
「へっ?」

巴がぽかんと口をあけると、千石は振り上げた足に勢いをつけてベンチから飛び降りた。
「だってさぁ、月夜で、男女で、二人っきりだよ?これはもうデートするっきゃないでしょ!
キミみたいな子とここで出逢ったんだからこれはもう運命だし!」
「えっ、それは本気で言ってるんすか?」
「あれっ、冗談だと思った?……哀しいなぁ。俺は君に出逢えてとっても嬉しかったのに……」
しゅんとして背を向ける千石を見て巴は慌てて立ち上がる。
自分を律してくれた時のキリッとした様子、「デートしよう!」と言い出した時の軽い感じ、
そして今の少し落ち込んだ様子に「表情が良く変わるなぁ」と少し感心していた。
「あの、だって今までそんなことなかったし、今は合宿中だし、
突然デートとか言われてもどうしたらいいかわからないです」
「……うんうん、そうだよね。俺みたいなチャラいのとはデートしてくれないよね……」
背を向けたまま呟く千石をちょっと面白いと思ってしまったが、
どう返せばいいのかと巴も黙ってしまった。

「えーと……デート、したいんですか?」
「うん。君がいい。巴ちゃんとしたい」
「もうすぐ、消灯時間になっちゃいますよ?」
「……部屋に戻るまででもデートはできるよ?」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。してみる?」

パッと振り向いた千石の顔はさっきまでの明るさとまた違い、なんだか大人の人みたいだと見とれてしまう。

「俺に任せてくれていいからさ、君は自由にしてて?」
その様子に息を飲むと千石は少しだけ笑い、巴の方に近付いてきた。

「可愛いね」

その変貌ぶりにぽかんと口を開けたままじりじりと間合いを詰められ、コートの入り口に追いやられてしまうと、
千石は網に手をかけて巴の顔に顔を近づけた。

「あの……デートは……?」
「うん、そうだよ。ちょっとだけ目、閉じて?」
巴がギュッと目を閉じると、頬にかすかな感触。
「はい、口あけてー」
躊躇していると、指先が唇に触れて少し下に下げられた。

(まさか……千石さん?)

慌てて目を開くと、とても近い所に千石の顔があり、押しのける間もなく唇に何かが触れた。
(えええええええええええええ………?)
唇に触れたのは棒付きの飴で、よく見ると千石はその棒の部分を咥えている。
目と目が合うと意地悪そうにニヤリと笑い、棒から口を離した。

「レモン味だよ。ドキドキした?」
「は、はい……」
「夜のデートならこれくらいの刺激がないとね!さーて、それじゃ部屋まで行きますか!」
「はぁ……」
呆気に取られている巴の手を引き意気揚々と歩き出す千石の背中を見ながら、
巴は頭の中がすっかり混乱してしまっていた。

合宿所の入り口に着くと引いていた手を離し、千石は巴の頭を二回撫でて微笑んだ。
「それじゃあね、巴ちゃん」
「えっと……励ましてくれて、ありがとうございました!」
「うんうん、気持ちがリセットできたみたいで何よりだよ。……また、デートしようね?」

下駄箱の陰でそっと耳打ちされたが、巴はそれに返事ができなかった。
しかし千石はその様子を見て満足そうに笑うと、また巴の頭を撫でて

「それじゃおやすみ。明日もお互いがんばろーね!」

と手をヒラヒラと振って男子宿舎へと歩いていく。
巴は
「都会の男の人ってすごい……」
と呟き、その背中を見送ることしかできなかった。




2013/08/22 Misz Umino
PingPongDash!

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