越前家には三人の女性がいる。
倫子おばさまと私、そしてこの春から同居することになった彼女。
中学生の彼女は朝はテニス部の練習のために早くに家を出て、夕方頃へとへとになって帰って来る。
だからこれまで二人きりで話をする機会なんて殆ど無かったのだけれど。

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こつん、とボウルの端に卵をぶつけ、そのまま割ってかき混ぜる。
泡立たないように白身を菜箸で切るようにほぐすのがコツですよと教えれば、隣で彼女も真似をした。
台所に二人で立つことには慣れているけれど、その相手が今日はおばさまではないことに不思議な擽ったさを覚える。

「で、お好みで砂糖を加えます。ここまで大丈夫ですか?」
「はい、バッチリです!」

話は十五分前に遡る。
休日の昼下がり、洗濯物を取り込んでると家中に響き渡った「うわあ!?」という悲鳴。
突然の大声に驚き、何事かと駆けつけた先には一人呆然と立ち尽くす彼女の姿があった。
恐る恐るといった様子でゆっくりとこちらを振り返る。

「菜々子さぁん…」

まあ、と感嘆。というか絶句。
目に涙を溜めて訴えかける彼女の手にはフライパン、そしてコンロの上には焼けた玉子と思しき黄色い物体。
私はそこで何となく状況を理解し、二人で後片付けを済ませた後で冷蔵庫の扉に手を伸ばした。
幸い、材料はまだある。そして私も今日は特別な予定もない。
だから落ち込んでいる彼女に卵を手渡し、提案したのだ。一緒に作りませんか、と。

「本当に菜々子さんがいてくれて助かりました。今日は皆出掛けてるみたいだから」
「玉子焼きを作るのは初めて?」
「…目玉焼きまでなら上手くなってきたんですけどね」

あは、と苦笑する彼女のエプロン姿は確かに最近、何度か見かけたことがあった。
ここ数日で卵の減りがやけに早いと感じたのもきっとそのせいだろう。

「目玉焼きをお弁当に、は難しいものね」

フライパンに油を引きながら、ちらりと横目でテーブルの上を見る。
ウインナーにポテトサラダ、ほうれん草の御浸し。何種類か並んだ定番のおかずはとても一人で食べきれる量ではない。
あえて悪戯っぽく微笑みかけると、ほんの少し照れたような彼女の表情を見て、図星なのだと確信する。

「友達には自分でお弁当作ってる子もいるんですよ。私ももう少しやっておけば良かったなあ」
「料理は練習あるのみですよ。私だって最初は見よう見真似だったもの」
「えっ、菜々子さんも?嘘だ!?」
「嘘じゃないです。あ、火は強過ぎないようにね」

ぱっと弾かれたように手元に視線を戻し、急いで火力を調節する彼女を見て、思わず口元が緩む。
こうしているとまるで姉妹のようだなんてこっそり思っていると

「練習すれば私も菜々子さんみたいになれるかなあ」

なんて、可愛いことを言ってくれる。
それにしても、こんなに可愛い女の子をここまで頑張らせるお相手とは一体どんな殿方かしら。
詮索なんて野暮なことをするつもりはないけれど、何にせよその人は幸せ者に違いない。

「巴さんなら私なんかよりずっと素敵な女の子になれますよ」

急がなくたって良い。だって、素敵になりたいと思えば思うほど、本当に素敵になれる。
女の子という生き物はきっとそんなふうにできている。この子を見ているとそう思わずにはいられないのだ。

くるり、と菜箸を持つ手を動かして最後の一巻きを仕上げる。
皿の上に空けた玉子焼きはふんわり柔らかく、綺麗な黄金色をしていた。
彼女の方も初めてにしては上出来だ。

「うわ、もうこんな時間!そろそろ着替えないと」

やっと完成した安心も束の間、慌てる彼女の肩に私はぽんと手を置く。
意味を察した彼女はぱっと顔を輝かせ、ありがとうございますと運動部らしい明るい返事をして部屋に駆け上がった。
さて、とお弁当箱におかずを詰めようとしてできたばかりの玉子焼きに視線を落とす。
行儀が悪いのは承知だが、やはり味が気になって彼女の作った方の切れ端をちょっとつまんで口に入れた。
…しょっぱい。これはまさか。
調理棚の方を見遣る。越前家の台所に並ぶ、色違いの良く似た容器。
道理で作業中、一度もお互いの手がぶつからなかったわけだ。
どちらの中身が塩か砂糖かを彼女が知っていたかはともかく、少なくとも目玉焼きに砂糖は使わない。

「お待たせしました!」

しばらくして階段を駆け下りる音と共に、着替えを済ませた彼女が戻ってきた。
玄関までついて行き、詰め終えたばかりの二人分のお弁当を手渡す。
行ってらっしゃい、と手を振って笑顔の彼女を見送った。ぱたんと閉じた扉の内側で、私はほっと息をつく。
そろそろと戻った台所に残されているのは、食べかけの玉子焼き。
こういうのはあまり良くないと分かってはいるけれど、でもこれくらいの応援ならしても良いかしら。
そんなこと思いながら、私は"せめて今日は、あの一生懸命な女の子が幸せでありますように"と祈るのだった。




+ヴァニラ
柚りは様
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