「ああーっ!もう疲れたよ〜〜っ!!テニスしたーい!」


巴は無意識にカチカチと鳴らしていたシャーペンを放り投げ、天井を見上げる。
すると自分の部屋ではなかった事がすぐに認識され、同時に見慣れた綺麗な瞳が視界に入ってきた。


「わっ!?」
「僕の顔見てそんなに驚かないでよ。酷いな、巴は。」


そう言って穏やかに笑う不二。

不二の部屋にいる事を忘れていたのもそうだが、
不二の隣にいるようになって三年は経つも、この顔を間近にすると巴はドキっとする。


「すっすみませんっ!ちょっと自分の部屋だって勘違いしちゃって・・・」
「フフ、言われなくても分かるよ。僕の事忘れて、勉強に夢中だったもんね。」
「えっええっわ、忘れてはいませんよ!でも先輩が集中するように言ったじゃないですかあ!」
「うん、期末考査はもうすぐなんだから、集中しなきゃダメだよ。」


微笑む不二に、巴はふっと視線を逸らした。
不二といるとこうやってペースが乱される事が多い。


「先輩って・・・そうやって・・からかうの上手いですよね・・・。」


ぽそっと言った言葉だが不二が聞き逃すはずもなく、
この答えもまた不二らしかった。


「そう?ありがとう。」
「んもーっ今の褒めてないんですけど!」


巴が軽く顔に紅葉を散らす。


試験前は部活も休みだ。
インハイ前であってもそれは学校の決まり事。今日はこうして不二の部屋で勉強会なのだ。

現在テニスしか興味のない巴だが、曲がりなりにも進路は医大を目指すはずなので、来年受験生になる心構えも必要だろう。
その為か、一足先に大学生になった不二が巴の世話を焼いているといったところか。


「ほらほら、そうやって八当たりしないの。何処が分からないの?」
「へへ・・バレました?この問いなんですけど・・・。」


不二の解説が始まり、ふんふんと頷く。
ここまでは良かったが、不二の得意な古典を教えてもらおうとしたのがいけなかったのだろうか。
微笑みながら不二のスパルタ教育が熱を帯びていった。
覚えていなかった活用表を何度も暗唱させられ、しまいには本文を朗読させられる。

巴が根を上げた。


「先輩・・私・・・古典はもういいです・・。これだけやれば平均点は取れます・・・。」
「そう?遠慮しなくて良いのに。」
「遠慮なんかしてませんよ!だって古典つまらないんですもん。」
「うーん・・・確かに高校生にはテストの為に古典を勉強・・・ってつまらないかもね。
 じゃあいいもの貸してあげるよ。」


そう言って場を離れると不二は、本棚から数冊の本を取り出し、巴に渡した。


「授業やテストだと高校生に古典を“つまらない教科”って認識させてしまうけど、
 きちんと作品の中身を知れば、何でも面白いんだよ。面白いから現代まで読み継がれているんだしね。」


不二の言葉を聞いてか聞かずか、巴は渡されたカラーの本をパラパラ捲る。
漫画のような絵が入っていて読みやすい解説書だ。

巴は今、問題を解いていた作品の人物紹介に目を止める。
そして声を上げた。


「不二先輩って、光源氏に似てますね!ホラ、ここに書いてあります!
 男女問わず全ての人を魅了しちゃって、女の人は皆が光源氏に憧れたり、好きになっちゃったり・・・
 あ、あと頭も良くて才能もあって、それでいているだけで周りを幸せにしちゃうような・・・まさに先輩って感じ!」


巴は自分の発した言葉に、うんうんと頷いた。
満足しているようだ。

だが不二の方は巴の“光源氏発言”に不服のようで、少しだけ眉を顰める。


強ち巴の言う事は間違いではない。
実際、男女問わず好かれるし、そして何より不二のモテぶりは半端ではなかった。

“なかった”という過去系なのは、巴と付き合いだしてからは不二は意外とも、女の子達に強固な姿勢を見せたから。


今時、歩くだけで黄色い悲鳴が上がる男が何処にいるだろう。
誕生日やクリスマス、バレンタイン。靴箱から机、ロッカーといつもプレゼントが溢れていた程だ。

だが不二が贈り物を断るようになるも、女の子たちの不二への憧れの眼差しや恋心は止む事は未だにないのだが・・・


「巴は酷いね。僕が光源氏に似ているって言うの?何一つ共通点が無いように思うんだけど?」
「え?」


不二が距離を縮めてくる。
軽くだが怒っているようだ。

勿論それは不二がわざとそうしているのだが。


「そっか・・・・・巴の目には僕はそういう風に映っているんだ・・。」
「え、えーと、あの〜・・もしかして怒ってたりします??」


巴は褒めたのに、何故か不二の機嫌が損なわれてしまった事に首を捻る。


「ふっ不二先輩っ!?」


床に座っていた巴を脇から持ち上げ、ベッドに座った不二は自分の足の間に巴を座らせる。
後ろから不二は声をわざと潜めて、巴の耳元で囁いた。


「あれ?巴が言わなかったっけ?僕が源氏に似ているって。
 巴の期待を裏切っちゃいけないかなと思って。」

「えっええっ!?な、何で・・・どういう事・・ですか?」


耳と横顔がすっかり赤くなり、じたばたしていた体はしっかりと不二の腕で固定される。
巴の胸の鼓動が速さを増していった。
生地の薄い夏服ではこの心音は間違いなく、胸の下に回されている不二の腕に伝わっているだろう。
それに気付いているのか、不二はさらに耳元に口を寄せる。


「フフ。今日はしっかり勉強しないとね。」
「なっ何のですかっ!」
「何って、決まってるじゃない。古典の勉強だよ。巴は何を考えたのかな?」
「!」


不二のこの手のパターンはもう何度もされてきて分かっているはずなのに、
いつも引っかかってしまう。
からかわれている事に巴が抗議の声を上げようとしたが、不二はそんな間は与えない。
不二の術中にはまるしかなかった。


「僕としては巴の希望通り、このまま続けてもいいんだけど・・・」
「希望って・・!え、えーと・・こ、古典の勉強で・・・お願いします・・でっでっ・・でもっどうしてこの体勢なんですか・・?!」
「フフ。別にいいじゃない。たまにはこうやって。巴は嫌なの?」


左の頬に感じていた視線が、さらに覗きこまれ、不二と目が合う。
嫌なのかと聞かれて、嫌であるはずがないのだが、巴はどうして良いか分からないのだ。
こういう雰囲気でなければ、自分から不二に纏わりつき、引っつく事は日常茶飯事であるのに。

尤も不二は、こうあたふたしている巴を見たいが為に、わざと言っている。


「源氏は恋多き男なんだよ。気に入った女の人は絶対に逃さない。恋の狩人。
 それで女の人の方も断らないから、大体は想いが通じるんだ。あちこちに恋人がいる。
 巴はそんな人が僕に似ているって言うんだね。僕は巴しか想っていないのにな・・悲しいな。」


不二の悲しそうな瞳に巴はビックリ慌てて返答する。
悲しそうな瞳は勿論、不二の演技だ。


「ええっと!!?そっそういう人なんですか?!きょ、教科書を読む限り、そんな事書いてませんよっ」


予想通りの巴の慌てふためいた反応に満足し、不二は優しく笑みを浮かべる。
少し体を離して、巴の髪を自分の指で梳き始めた。

そんな不二の様子に巴は少しだけホッとし、背中をそっと不二の胸へ預けると、
まだとくとくと音を立てている自分の心音を感じながらも、不二の話に聞き入るようになる。


「・・・・源氏の初恋は五歳年上の義理の母で、藤壺という人なんだけど、源氏は自分の奥さんと不仲な事も手伝って、
 その想いを寄せていた藤壺と密通してしまうんだ。そして不義の子を設けてしまう。
 表向きにその子は、天皇である源氏の父親と藤壺の子で、源氏の弟という事になり、この子はいずれ皇太子、天皇になるんだ。」

「自分の義理のお母さんと密通・・・・何かスゴイ話・・・。」


思いも寄らなかった古典の世界の恋の話に、巴は体勢のドキドキもさることながら、
不二の言葉の続きを待った。


「将来天皇となる子を産んだ藤壺は、益々地位が確立されて、本当に源氏の手に届かない存在になってしまってね。
 ちなみに源氏の父親も同じ帝だけど、源氏自身は皇太子になる権利はないんだよ。
 でも、ないからこそ自由に恋が出来る。だから源氏は様々な女性に、藤壺の影を求めて恋をするんだ・・・
 そしてある時、山里でその藤壺に生き写しの少女を見つけて、後日無理やり屋敷に連れて帰ってしまう。」


現代ではあり得ない話に、巴は今不二の腕の中にいる事も忘れてか、巴らしい声を上げた。


「ええーっそれって少女誘拐事件じゃないですか!?」


しおらしかった巴からいつもの巴に戻った為、不二は巴の首筋に口元を近付け、
息がかかるように上下に動かす。
それにより不二の唇の温かさを微かに感じ取った巴は、ぴくっと再び体を固くするも、
話の続きを急かすように、後ろの不二へと首を向けた。

巴の戸惑いと期待の混ざった瞳に、不二は笑みを浮かべながら話を続ける。


「うーん、平たく言うとそうなんだけど、これも色々事情があるんだよね。
 最終的に源氏は、この連れて帰って自分の手元で育てたこの女の子・・・女性を一番愛するんだけど、
 源氏の悪い癖のせいで、この人の心は最後の方は源氏から離れてしまうんだ。
 そして源氏はこの最愛の人に先に死なれてしまう。まあ、源氏の自業自得だと僕は思うけどね。」

「自業自得って・・先輩・・・・結構キツイですね・・。」

「そう?ちなみに源氏は、父親の奥さん(藤壺)に恋して密通した過去があるもんだから、
 自分は絶対に、他の男やあまつさえ息子も、最愛の人に近付けさせないんだ。」

「・・・・自分の事は棚に上げているんですね。」

「フフ。どう?こういう風に話の中身を聞けば、少しは古典アレルギーもなくなるんじゃない?」


いつの間にか不二の話に夢中になっていた巴は、先ほどの事はすっかり忘れていた。
不二の方に体をくるりと向けると、そうですね!と笑顔を向ける。


夏服のスカートの皺を伸ばそうと立とうとしたら、さっと腕を掴まれ、
巴は思わず座っている不二へと覆いかぶさるように倒れそうになった。

倒れそうになった、という事は倒れなかったのだが、不二が腕を掴んでいる為、
結局は不二の力により、向かい合った不二に体を預ける事になる。


先ほどより、さらに不二を近くに感じるこの体勢に、巴は逸る胸が治まるようにか、口を固く結び、目をパチパチさせるしかない。

巴のそんな様子に不二は優しい笑みを浮かべながらも、胸元に手を伸ばし、
するっとセーラーのリボンを解いた。


先輩!?と声をあげながら、巴は反射的に体を反らそうとするが、
しなやかに見える不二の腕は、強い力を持っている事位、巴だって随分と前から知っている。
抵抗しようとしたって無駄なのだ。

不二の外見からは想像も出来ない、男の人の顔を持っている不二も巴は好きなのは間違いないが。


色々な事を頭を過ぎらせていると、
巴を驚かせるような事をまた言ってのけるのが、不二。
わざとなのか首を傾げながら、巴の瞳を見つめる。


「より古典の世界を深めようと思って。」

「深め・・・!?ど、どうしてこうなるんですかっ!?」

「うーん、そうだね。古典の世界を知るには、まず恋を知らないと・・・ね。」

「ちょ、ちょっと待って下さい・・!下にお母さんいるし・・・!」


とりあえず思いつく必死の抵抗の言葉を口にしてみる。
勿論、そんな事は不二の前では無駄だ。


「大丈夫だよ。巴の勉強を見てやるから、邪魔しに来ないでって言ってあるし。」

「え、えーと・・・。」

「昔の人たちはこんなドアもなくて、襖や几帳・・几帳っていうのはつい立ての事ね。
 すぐ誰かに見られてしまうようなところでも愛し合ったんだよ?そう考えたらこの部屋ドアあるし。」

「そっ・・・そういう問題ですかあ・・!?」

「クス。一つ覚えたでしょ。几帳って言葉。
 そうだね他は・・この時代の貴族の寝所は何ていうか知ってる?」

「寝所・・?わ、分からないです・・。」

「帳台とか、御帳台、御帳って言うんだよ。
 今でいう天蓋付きのベッドみたいなので、一応目隠しとして布が垂らしてあるんだ。ほら、勉強になったでしょ。」

「はぁ・・・・・・」


完全に不二のペースだ、等と思う暇なんか当然なく、
巴は改めて、目の前にある綺麗な瞳にドキドキしながらも、再度抵抗を試みた。

「で、でも今は現代ですっ!そ、そそれに聞こえちゃいます・・・!」
「それは巴が声を出さなければいいんじゃない?」


瞬間、カッと赤くなる。
不二の止まるところの知らない笑顔の攻撃。

これ以上の抵抗は無駄と思ったのか、それとも形だけの抵抗だったのか、 巴はぽすっと不二の胸に顔を埋めた。
恥ずかしさ一杯で声を絞り出す。


「そんなの無理ですよ・・・・」


巴の小さな言葉に微笑しながら、更に不二はしれっととんでもない事を言ってのける。


「そうだよね。だって巴の声が聞きたいからそうしているんだし。」
「!!!」


巴は堪らず、先輩の意地悪!なんて言ってみるけれど・・・・・


結局、そのまま不二の瞳に吸い込まれるように、巴は瞳を閉じた。



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